メディカルヨガ

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欲求は自然なもの:自然を忘れながら大人になる私たち

学びは突然呼び起こされるものだと思いました。

リストラティブヨガの恩師であるJudith(ジュディス)先生は、欲求は伝えて感謝するものだ、とよく言っていました。レストランで特別なリクエストをするとき、娘さんたちに「ママ、恥ずかしいからやめて」と言われても「私は責めているんじゃないの、自分の気持ちを伝える努力をしているのよ」と言っていたわ、というエピソードを笑って話してくれたことを覚えています。

その意味がようやく今日、うっすらとわかってきました。心許せる友人たちと久しぶりに集いランチ。3歳の息子連れを快く迎えてくれる寛容さに感謝。ランチメニューのデザートのソフトクリームを先に出してもらい、もうひとつ食べたいと言って聞かない息子の「アイスへの執着ぶり」に、子供って正直だよね、要求がストレートだよね、と苦笑。

リストラティブヨガの授業でよくエゴのお話をします。
「アハカン」つまり、私は何者なのか、ということ ならびに
「アスミタ」こちらは、私が信じている考え方に固執すること 
という二種類のエゴについてお話しします。
リストラティブヨガでは、自分の考えからすら解放されることで自由になれる、という体験を味わうわけですが、よく観察すると、息子が「アイスを食べたい」という主張には一切の偏見も先入観も含まれておらず、ただただ息子は心からアイスを求めているだけなのでした。

さまざまな形をとるにせよ、私たちは欲求を持たずには生きられません。
大人になるにつれ、その欲求を隠すようになります。他者に対してのみならず、自分に対してもその欲求を見て見ぬ振りをすることがあります。欲求はエゴだ、と教わって育つからです。
親は子供の欲求を「わがままだ」と、頭からつぶそうとします。
でも、欲求があることは自然な姿なのにもかかわらず、です。
アーユルヴェーダやヨガの教えは「自然に逆らうとうまくいかない」です。「調和する努力をすれば、光が差し込む」です。
子供の要求はエゴではなく希望だったのかもしれません。
魔の二歳児から三歳を迎えた今、自我の芽生えに親は戸惑い、数えきれないほど息子の欲求を頭ごなしに抑圧してきました。大人のエゴの方が圧倒的に力があるからです。

子供の自然な姿から学ばなくてはならないのは親の方かもしれません。
欲求という自然をゆがめようとするから、ひずみがでて、そのひずみに親が反撃されているのです。

リストラティブヨガを教えてくれながら、ジュディス先生はよく言いました。
「BE LAZY」なまけちゃいなさい。頑張り過ぎなのよ。
私たちはもっと休みたい、という要求を持っている。だけどそれを抑圧し、休むこと、怠けることはいけないことだ、と自分に言い聞かせ(洗脳)している。子供がそんなことするかしら?
休みたいという気持ちは自然な要求です。その自然なココロとカラダの声に耳を傾けてあげることを慈悲というのですよ。自分に慈悲をかけないから、他者から授かる慈悲にも気づく繊細さを失っているのでしょう。と。

私はいつもであれば主人の頼むものや栄養価のことばかり考えて、メニューを選ぶ傾向があります。でも今日は自分が食べたいものを素直に選んでみました。「アボガドとタコとあげ茄子のバジルソースパスタ」それだけで、なんだか自分のココロとカラダが喜んでいるような気がしました。

要求とのつきあい方が上手になっているのではなく、下手になっているから、大人は疲れるのでしょう。
子供は、要求すれば怒られてしまい、やっぱりかわいそうな存在。
本当は
「お母さん、僕を見て」
「お母さん、すべり台したい」
「まだまだもっと遊びたい」
「お母さん、チョコレート食べたい」
「お母さん、笑って」
すべてが愛おしい心からの要求であり、自分の考えへの固執ではないのです。
幼稚園の先生は子供の要求(希望)を上手に扱う、ヨガの達人に思えてきます。

ジュディス先生の伝えたかったことがまたひとつわかった気がした今日から、今までつぶしてきた息子の希望に倍返し。すべてはかなえてあげられないから、せめて「頭ごなしに否定をしない」努力をしていきたいと思います。

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